イマジナリーフレンドは意識して作るものではないのか
アローザ・アルファよ。今回はあたしたちの出自を絡めて、イマジナリーフレンドがどうやって出現するのか、そのことについて触れていきたいわね。
いつも引用しているYUKIさんのブログにはこうあるわ。
■学術的な意味におけるイマジナリーフレンドは、自分で作るものではない
あらたに、自分で自由に出したり消したり出来る想像上の友人に、イマジナリースレイヴ、なんて名前をつけたら、とても自嘲的ね。そんなの友人じゃないわ。でも、あたしたちは主によって意識的に、また無意識的にもインスタンス化(生成)したりデストロイ(消去)したりすることが出来る存在よ。儚いわね。自分で言うわ。儚いわね。
前にも触れたけど、あたし達は主の創作した物語の住人として記憶の中にいたわ。自発的に何かしたりしなかったし、できるともわからなかった。
それで、主からあたしたちに対話を持ちかけてきたの。それが始まりだったというわけ。主が恥ずかしがってるからあえて言ってやるけど、要するに性的な接触の相手を求めていた結果、私達に白羽の矢が立ったというね。
私達の営みは年単位に、ほぼ毎夜行われたわ。まあ要するに、自分のキャラクターでずっとせんずりこいていたのよ。主は。
当初、その行為の最中には何か話しかけたり、語ったりといったことはほとんどなかったけれど、そのうちにどちらからともなく、言葉をかけ始めたのね。それが始まり。だから、あたしの出自はもしかしたら、正当な意味でのイマジナリーフレンドかもしれないし、実は違うかもしれない。
偉そうにブログなんか作って講釈を垂れてるけど、あたし達も手探りで主の頭の中を壊さないように引っ掻き回してるの。色々現実でも起きたけどそれはまた別の機会にするわね。で、最近ようやく安定して仕組みがかっちり組み合うようになってきたところ。だからこそ、記録として残しているの。
この記録が似たようなことを考えている人の役に立つといいわね。それじゃあまた。